昭和47年4月27日 朝の御理解
                             中村良一
御理解 第62節
「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んでゆくのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」



わが身の上におかげを受けてと言うことは、どういう事だろうか。また、一段一段進んでいくのじゃというのは、どういう様な所を、目印として、進んでいっておることを、自分で自覚することが出来るかと。十年信心しよるから、もう十年選手というわけには行きませんですわね。ただ、十年の上、二十年の、一生信心しよっても、信心は、いっつも幼稚園という人がありますよ。ほとんど、一年二年の信心で、もう、目覚しいその、信心を進めていく人がありますよ。ね。一段一段、登っていけれる信心に、一つならせて頂かなければなりません。ね。
ですから、わが身の上におかげを受けると言うことは、まぁ、信心を十段と致しましょうかね。それで、まぁ、一段、例えば、ようやく登らせてもらった。そしたらね、そのおかげを受けておる程度のことならば、人に話しも出来ますし、伝えることも出来ますはね。ほんなら、三段登らせて頂いたら、三段以下の人になら、教えてあげることが出来ますよね。私は、ここのところを、様々にこの、御理解いただいてまいりましたけれども、えーと、わが見におかげを受けてという事は、大変難しい事でした。今日、いただきます御理解から頂きますと、そうじゃないですね。信心をさせて頂いて、もう本当に、信心の、一段だけでもです、ね。分からせて頂いたら。信心の段のない人、全然無い人にお話しそしてあげることが出来る。十段にも登らせて頂いたら、いわば、十段以下の人、誰にでも話してあげれる、人を助けてあげることが出来るという事になるわけです。
そこで、まぁ、思うんですけれどもね、やはり、私共は、人間というのは、大体現金に出来ておりますよ。ですからね、その、十段になったら、十段になったがたに、やっぱ、おかげを頂かんならば、遡源、十段に、わざわざ登る必要はなかという様な、ね。五段になったら、五段がたの、やはり、おかげが伴わなければ、その、段取りしてもらったって仕方がない。信心が、幾ら進んだところで、私は、だから、おかげが伴わないのは、こら、現金なごたるけれども、こらもう、当たり前だと思う。
そこで今日は、まぁ、こんなふうに、一つ考えてみたらどうでしょうか。例えば、品物でもね。例えば、ここの商品がありますよ、何かの。まぁ、私が、酒屋でしたから、酒にしましてもね。酒という商品がありますよ。ね。誰だって、ただじゃやりはしませんよ。ね。おかげもそうです。幾ら、仏様のような人じゃ、神様のような人じゃと言うてもね。ただじゃ、おかげはやられんとですよ。ね。いわゆる、信心をさせて頂かなければね、頂けんのです。人間が、どんなに、まともである、正直であると言うても。
昨日も、あるお婆さんがお参りをして見えまして、もう、七十幾つになられる。一週間に一遍づつお参りをする筈じゃったけれども、まぁ、何か知らんけれども、お参りせにゃおられなくなってきたと言うて、昨日、また参ってきておられました。その方が、まぁ、身体が、もう七十四五ぐらいになられますから、あっちこっち、こう痛んだり、どうかあったりするわけです。それに私は、若い時から、別に、人に悪い事をしたこともなからなければ、人に根性の悪いその、あれした事も無いと。それに、どうして私は、こげん、幾つも病気がありますじゃろうかと言うて。けども、あなたもう、七十幾つですよ。しかもあなた、三里の道を、一人で、お供を付けずに、そりゃもう、大変な大家のお婆ちゃんですから、お供を付けてきてもよから、自家用車で見えても良い訳ですけども、やっぱ、バスで見えるんです。だから、もうここに、しかもこの、雨の降る日には、お参りが出来ただけでも有難いですばいと言うて話したことです、ね。それで、あなたが、三つか四つ、身体が、喉がどうかあるとか、身体に力がなえてしもうとるとか、色々その、三つ四つ、身体の悪いところを、まぁ言われますから。まぁ、言うなら、今は沢山な事でしょうけれども、昔は、病気は四百四病ち言いよった。病気の種類を、四百四病と言う、ね。四百四つあったと。その言うなら、四つだけが悪いのであって、四百だけはあなた、元気じゃない。目も見えりゃ、耳も聞こえよりなさる。手足も自分で、どこまでもお参りしなさることができるのだから、その四百のほうばあーた、しっかり、お礼申し上げなさらな出来んですね。そういう考え方もございますねち言うてから言いよった。そういう考え方が、本当なんです。信心とは、だから、そこんところを教えていただく。ただ自分が難儀だと、そのことだけで、もう、目の前が真っ暗なってしまう。それは、戸を外して見らんから。ね。頂いておるものに対しては、だから、しっかりお礼申し上げねばいかん。今日から、白ごつでんよかけん、ありがたか、ありがたかち言いななさいち、私が申しました。
もう、嘘から出た真と言うてからね。白ごつにでん、ありがたか、ありがたかち言いよると、段々、有難うなってくる。ね。神様が、決して、ただやろうとはなさらんです。もう、七十五になりなさるお婆さんじゃけんで、もう、ただでやるち言うわけにはいかん、神様は。ね。だから、私は、この前は、十日なら十日、一週間なら一週間、日を切って、きちっと、それだけに参ってお出でなさい。これでかはもう、きちっとお参りをしなさい。まぁ、昨日のお婆ちゃんの場合は、日曜まで待たれんと言うて、昨日参って見えたんです。そういう信心、だから、ここの今度の日曜はもう、参らんでん良かでしたかち、はっきり、言いなさるですもん、昨日は。そげなこつがありますもんかい、あーた、日曜、日曜に参ってきなさらにゃできんよと言うた。しかしもう、今日は、気分良う、参りたかったけん参ってきたばってん、さぁ、一週間目に、雨どんがあったら、嵐どんがあったら、どうしますかち、こう言われますから。そん、雨風をね、おかしてでも参ろうと言う元気な心がおかげを頂くとですよ。まぁ、信心ちゃ、難しいものでございますねと言うて言われる、ね。ひょっとして、日曜に、参ることが出来んかも知れん。ひょっとすら、それが、雨や風が吹くかも知れん。だから、今日参る、気分が良いから、今日参っとことこういう訳なんです。そういうことでは、しかし、おかげは、いわゆる、問屋が卸さんわけですね。
ですから、私共が、例えば、一升のお酒を買わせて頂くでもです。小売値で買うよりも、卸値で、いっちょ買いたい。ね。卸値よりも、原価で分けてもらうなら、まぁだ嬉しい。これが人情です。ね。そこでです、やはり、おかげもね、はじめの間は、小売値で買わにゃ仕方がありません。けれども、段々、私は、信用が出来てくるというか、ね。もう、あーたんところは、何時も取って頂くから、もう、卸値にしときましょうという事になるでしょうが。ね。これがもう、いよいよ、親戚かなんかち言うと、もう、よかよか、原価で良かたいち言うてから、やるですもん。言うならば、神様と、親戚付き合いが出来るようになるところまでいかにゃいけんのです。なら、それとてもです。ただでやるわけにゃいかんです。原価です。だから、信心は、どうでも、信心の修行をさせてもらわなきゃいかん。
私は、今日は、どうして、こういう事を言うかというと。今日、御神前で頂くことがね。あの、あの御の字ですはね。行人偏に卸すと言う字が書いてあるでしょうが。それを、行と、卸すと言う字を別々に、こう頂くとですよ。どういうことじゃろうかと、私は思いよりましたら、この六十二節を頂いてです、ね。信心も、一段一段と進んでいかにゃというところをです。ははぁ、こりゃ、私段、神様のおかげを小売値で貰いよる人がある、卸値で貰いよる人がある。かというと、もう、原価同様で、おかげを頂きよる様な人もあるという事を気付かせて頂きましたね。いわゆる、お互いの、信心の行です、行、行人偏、ね。信心の修行いかんなんです。ね。そこで、わが身におかげを受けてと仰る、その、自分の身におかげを受けると言うことを、さっきから、まぁ、一段から、信心を十段とこう致しましたらです、ね。一段にだけでも登れたら、もう、信心の無段の人に、信心の無い人にです。教えてあげることが出来る。わが身におかげを受ける。
はぁ、私が、おかげ受けにゃ、人に話されん。何か自分が、百万長者になったり、もう、医者が見離した病気が、助けてもらわなければ、おかげじゃ無いごと思うとる。それで、先ず、私が、おかげの手本ばいただかにゃと言いますけれどもですね。おかげを頂いておるという自覚が無い。例えば、今の、お婆ちゃんに、お話しましたように、四百というおかげを頂いておると気付いたら、もう、四百のおかげを頂いた事になるじゃないですか。ね。ただ、後四つのところだけを、一つ、お願いをしておかげを頂いていく。ね。おかげは、もうすでに頂いておることを知らなかっただけの事、信心が無い間は。信心をさせて頂くようになったら、ね。ほんに、世の中に、もう、現在では、千も、その上もありましょう、病気が。けども、昔の言葉で、四百四病の病と、こう言いますから、まぁ、四百四病に仮定してです、ね。只今、胃なら胃が痛いならば、四百三つはもう、おかげを頂いておると分からせてもらう事が信心なんです。ね。一段、信心が登ったわけです。
そこでです、私共の、信心内容というものは、どういうような、勿論、心の状態なんですけれど、ね。自分の心がです、段々、信心とは、一年一年、有難うなってくると仰せられるから。一年一年、有難うなっていっておる、その度合いが、信心の度合いなんですけれども。それを、もちっとはっきりと分からせて頂くためにです。自分の祈りの内容というものを、つまびらかにすると分かるです。自分の祈りというものをです、一つ、出してみてごらんなさい。もうほんな、自分のこつばかり、わが頼むこつばかり、ね。段々、信心が分からせていただくようになると、ね。赤の他人の誰の事でもです。そこに、難儀な姿を見ると、祈らずにはおられん、願わずにはおられん。自分の身を削ってからでも、人の事が祈らなければおられない。人のために、わざわざ、御初穂を奉って、お願いをするち言うなら、こらもう、自分の身を削って、人のために祈っておる姿なんです。ね。そこで、信心が、段が分かりましょう。ほんなもう、わがこつだけしか願わん。ね。だから、それで良いんですよ、ね。けども、何時までも、それであってはいけないというだけの事です。
信心が分からない。ただ、おかげ頂きたい。信心の無かった者がです。例えば、病気なら病気で、お参りをしてくるなら、自分の病気の事だけを願うのは当たり前ですから、ね。話を聞かせていただいて、ほんなら、願うことだけじゃない、こりゃ、お礼も申し上げにゃんたいと言う事が分かるだけの事であって、ね。分かったら、分かったようにさせていただかねばならんけれども。分からん間は、ただ、言うならば、自分のことだけを、一生懸命、ただ、一生懸命に願わにゃいかん。願うと言うてもです。一遍頼んどきゃ良かてんなんてんじゃなくてです。ただじゃやられんとじゃから、おかげち言うものは。ね。七十五のお婆さんにですら、私が、一週間に一遍は、絶対参っておいでと、こう言うとるのです。ね。ですから、それでいいのです、ね。けれども、何時までも、同じ所に留まっておってはならないという事。
御祈念の時に、皆さんが、拝詞を奏上されます。ね。世界真の平和を願われる、世界総氏子身の上安全を、唱えごととして唱えておられますけれども、それは、唱えておるだけでしょうが。ね。実感として、祈らにゃおられんというものじゃないでしょうが。私共は、ようやく、今、その事がです、実感として、最近、祈られるようになった。もう本当に、教団全体に、日本国中だけの事じゃない。もう、世界中のもう、隅々の事まで、祈らなければおられない。ね。人間氏子の、本当の立ち行きを願わなければおられない。世界の、本当の平和を願わなければおられない。いやもう、最近は、もう、世界中に、どれだけあるか分からんけれども、世界中の氏子の精霊のことまで願う。ね。苦しみの御霊、迷うておる御霊、ね。そういう、例えば、御霊の世界を、少しこう、覗かせて頂いただけでです。もう、とにかく、人の難儀を、じっとして見ちゃおられないという実感がです。世界中の精霊のことの祈りに、最近、ならせて頂いておる事をね。自分で、大変有難いと思います。それがね、私ぐらいな者の、芯の弱いものが、祈ったところで、願ったところでです。それは、おかげにはならんかも知れません。幾ら人の事を願ったっちゃ。ね。けれども、願っておる、願われておるという事。自分がその、願わにゃおられないというその、自分の心が有難いです。自分で自分の心が拝みたい時は、そげん時です。なーにならん、あの人の事を、一生懸命願いよるけれども、自分の身を削ってからでも願いよるけれども、相手に響きよるやら、響きよらんやら分からんけれども、祈っておるということ、それ自体が、自分が有難いんです。わが心が拝みたい時は、そげな時です。ですから、どんなに大きな岩に向かってです、なら、私共が、力んだところで、その岩が動くことはなかろうけれども、それが、一年たち、二年たちしよるうちに、自分のほうのこぶ、力瘤のほうが、しっかり出来てきたという事になるんです。だから、人のことを願うという事は、もう、あの人に願うちゃやらんとか、もう願うたっちゃ同じことだと言わずに、願わにゃおられん心を育てなきゃいけんです。そこに、自分自身の力というものが頂けるです。ね。それもただ、唱えごとでじゃいかん、それが、願わなければおられないと言う心に育っていくところにです。いうならば、信心の修行を伴わなければ出来ないという事が分かります。はぁ、そんなら、今日から、世界中のこつばお願いしようと言うたっちゃです、ね。それが、実感となって来なかったら、・・・。ね。
昨日、午後からの奉仕の時に、久留米の佐田さんがお参りになってきた。あれは、画仙紙というですかね。あの、字やら絵を書く、立派な紙を持って見えましたですもん。親先生、今朝から、主人がお届けを申し上げとるそうですが、一筆、これに書いていただきたい。今度、お神様の部屋が、綺麗になりよる。今まであがっとった奴は、もうどうも、額類は、全部下ろしてしもうて、まぁ、出来るなら、親先生に一筆書いて頂いて、それを額にしたいとこう言う。さぁ、そら何ち書こうかなという所で、まぁ、書かせて頂いたんですけれども。どういう事を神様が書かせて頂こうかと思うてね。お願いさせてもらいよったら、地の柱に天の恵みと頂きました。地の柱。書いてみて下さい。地の柱、地の柱に天の恵み。だから、天恵地柱と書かせて頂いた。天恵とは、天の恵みですね。地の柱。どういう、それに、なら、御理解が付いておるかと言うとね。地の柱にならせて頂くことを願えと。ね。神の願いが地上になると仰る。神様の願いが地上になるという事は、地上に、ね。生きておる、生きとし生けるもののなかでも、人間、万物の霊長ですね。人間の、いうなら、真の助かりが、神の願いが地上になった姿です。ね。
一人の、真の信心者が、ここにあるという事は、神の願いが、そこに、一応、成就したわけです。神の願いが地上になる。そこで、信心を頂かせて頂く者のです、ね。日蓮上人様じゃないですけれども、吾、国の柱にならんといったようなふうに仰ったそうですね。国の柱になろうと。大難がくるんだと。だから、日本国の柱になろうと、と念願を立てられたわけなんです。ね。そこで、お互いの祈りの中にもです。ね。言うならば、どうぞ、世のため人のためになるような信心をさせて下さいという事なんです。自分のためだけじゃない。世のため人のためになるような信心をさせて下さい。それを、もう少しほんなら、いうならばです。どうぞ、教会の柱にならせて下さいち言う。総代になりゃ、教会の柱になっとると思おうと大間違いじゃ。根が腐っとるなら、かえっていかん。ね。本当に、教会のね、例えば、教会の一本の柱にでんならせて頂きたいと。もう、自分のことじゃないです。これなんかは、私は、ね。地の柱という事だと思う。だから、そういう願いを立てなきゃいけん。
佐田さんにかけれれる、神様の願いは、どうぞ、これからは、ね。地の柱にならせて頂くことを、勿論、願ってもおられますけれども、それを、もっともっと、立派なものに、強いものに、そこに祈りがね、置かれれる信心になれ。それに、そういう事になったら、もう、天の恵みはね、もう、必ず、願わんでも、頼まんでも。これは、どういう事かというと、先ほどから、まぁ、卸とか、小売とかと申しましたが、もう神様が、そういう修行者の上には、もう、原価でおかげを下さると言う感じが致しますね。だから、やっぱ、どうでも、信心が進まにゃいかんです。何十年信心すりゃ、進むという事じゃない。ね。もぅ、一年目には、本当に教会のことが、もう、白真剣に祈らなければおられないと言ったような人もあるんですから、やっぱり。ね。二十年たっとっとっちゃ、五十年たっとったっちゃもう、ほんなもう、わが、家の内のこつだけ。そりゃもう、拝むとは、そうにゃ上手になっとるけんで、そうにゃ、長たらしゅう、拝みよる人があるです。でも、わがん息子のこつやら、孫のこつばっかりという人もある。だから、そげんとじゃ、まぁだ、信心は幼稚園ちいう事である。ね。けれども、段々、けれどもその、幼稚園だけであってはならない。本当にです、信心がその、段を追うて、一段一段進んで行くのじゃと仰る。一段一段進んで行かんとです、ね。馬鹿らしいです。せっかく信心の稽古をさせてもらいよってから。ね。なぜかと言うと、ね。小売方よりも、卸値で貰うおかげのほうが良いでしょうが。ですから、それより、あもっと素晴らしいことは、ほんなら、神様がもう、原価でおかげを下さるようなおかげのほうが良いでしょうが。やはり、おかげが伴わん、おかげをですね、言わんとね、皆が頑張らん。もう、これで良かち言うなら。何時まっでん、小売値で買うごたる信心じゃいかん。
私は、今日は、今日の御理解を頂いて、この六十二節が、いよいよ、素晴らしい御理解だなぁと、今日は改めて分からせて頂きました。ね。吾より人はなお良けれと言うておるが、神信心をしても、わが身の上におかげを受けてと言う事がです、分かるでしょうが。何か、こうやって、大きなおかげを、こう目立つようなおかげをいただかなければと言う意味じゃないです。一段進んだら一段。二段進んだら二段。以下の人に、人が助かっていくような働きというものは出来るものだ。自分の心が、いよいよ、有難い、勿体ないと言うことにです。焦点を置かせていただいて、自分の心が、いよいよ、豊かに大きくなってまいりますとです。こら、私自身で、はっきりそれを感じます、二十何年の信心で。
あの、実感としてですね、祈れるようになってきた。これがはっきりしとるです。ただもう、うちに参ってくる信者のこつばかりしか、拝まなかった時代があるのです。もう信者にも、また、とにかくあの、しらごっじゃいかんです、神様には。ほんなごつじゃなからないかんから、自分の実感。もう、痛いなら痛い、痒いなら痒いことだけ願わんの。天皇陛下の事ば願うたり、皇后陛下の事ば願わにゃならんち言うちから、天長節に旗立つるとでん忘れるごたるこつで、願うたっちゃつまらんち、私が言うた。金光教の先生達は、そげなこつ、やっぱ、拝まにゃんごつ教えられるんですからね。はらもう、昔は、大日本帝国ち言いよったけん、大日本帝国のこつからね、天皇陛下、皇后陛下と言うちから拝みよった。そして、天長節には、国旗立つるとも忘るるぐらいな事で、天皇陛下の事ば願うたっちゃ、なんになるかと私が言うた。ね。と言うのが、私の過去の信心でしたよ。もう、実感、もう本当に痛いなら痛い、痒いなら痒いという事を、こう、神様に直通するような願いを立ててと言うわけでした。ところが、そういう信心からも、段々、信心が分かって参りましたらです、ね。段々、おかげを頂いて、本当に世界中の、それこそ、隅々のことまで、自分の頭の中に、一遍、こうやって、考えてみてですね。だから、私の心はもう、毎日、毎朝です、言うなら、世界中を駆けまわっとると言うても良い訳です。ははぁ、教祖様が、世界は和賀心にありと仰ったのは、こう言うことじゃなかじゃろかとさえ思うくらいです。しかも、最近な、世界中のことじゃない、その御霊の世界のことまでもう、真剣に願わにゃおられんです。そこに悩んでおる御霊がある、苦しんでおる御霊がある、迷うておる御霊がある事実をね、少しでも分からせて頂いたらね。祈らにゃおられんです。だから、それが、神様が、聞きござるか聞きござらんかか分からんけれどもです。祈りよる自分も有難いです。やはり、信心を進めていかなければいけません。一段一段、信心が高められていかなきゃいけません。というところがです、ね。信心も手習いも同じ事。一段一段進んでいくのじゃという事が、意味が分かるでしょうが。進まなければ馬鹿らしい。ね。それを、私は、今日は、小売値とか、卸値とか、ね。または原価で頂けるといったような事を、どういう信心の程度の時には小売、どういうところまで登ったら、もう卸値で貰える。ここまで、信心が至らせていただいたら、原価で頂けるようなおかげ。絶対、おかげは、ただじゃやらっしゃらんて、神様は。ね。そんなに、甘いことはない。絶対、修行を求め給うて。ね。
ですから、その修行の内容がです。ただ、自分のために修行するか。ただ、人のためのために修行をするか。本当に、神様がお喜び頂けるような、地の柱にもならせて頂きたいと言うような願いのために修行するかと。三つの段階を追うて、今日は聞いていただいたですね。ですからもう、今日からいっちょ、地の柱になろうといったって、そりゃいけんです。一足飛びには。実感じゃないから。そう祈らなければおられないものでなからなければね。けれども、そういう一つの段階というものがある事を分からせて頂くとです。自分の信心を、こう、つまびらかにしてみるとです。はぁ、自分の信心が、まぁだ、小売値で買いよるとこばいなという様なところが分かるでしょう。ね。自分の信心の程度が、どの辺ちいうとこが分かるでしょう。ね。ほんなら、それではいけんからです。一遍、人のため、世のためにでもです。一つ、ひと修行してごらんなさいませ。人のために、世のために。自分の身を削ってでも、ね。人のため世のために祈ってごらんなさいませ、ね。自分自身が有難うなるです。そこから、祈らなければおられないという事にもなってくるわけですね。どうぞ。